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  • tetsujiro369

写真家と寫眞家

最終更新: 9月23日

ホームページで写真を見てもらうだけではと思い立って、文字を起こしてみることにした。 まあ、大したこともなく過ぎていく毎日だから、ネタというもあまりないんで、気ままに書いて行く。


基本的に気分屋だし、やることといえば、寫眞を撮る、現像する、引き伸ばしをする。


それくらいしかない。あとはそれをするために生きる、それだけ。


表題にあるように、自分は写真で飯を食っているわけだから写真家の端くれと言えなくもない。別の写真家の定義があるわけでもないので、食えていなくても写真家は写真家だろうと思う。


ただ、写真家ではない。寫眞家だ。


旧字体で読んで欲しいと思っている。写真家って字がなんだか浮ついていて好きになれない


寫眞って漢字にすると、何だか職人っぽくて好きだ。


アナログ寫眞、モノクロフィルム専門に活動していて、シリアスフォトグラファーという肩書を名乗っている。


アナログ寫眞で作品を作る理由は、デジタルはもう人間の機械じゃないと感じたから。


あれは神かはたまたAIかなんかが持つ機械だと思う。あまりにも無限で、手におえない。


アナログ寫眞は、ピアノの鍵盤のように制限がある。その中から生み出すことが無限で、


それ自体は無限じゃないと感じたから。人間が持つことができる、制御できることは限られている。


それ以上のものをやろうとすると創造性は破綻する。


だから、自分は寫眞家であろうとする。


今後も変われない。変わるつもりもないが、アナログ寫眞こそが寫眞芸術だと言える。


それ以外は無限性の機械の競争でしかない。



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